妹を殺せなかった話
殺伐としたタイトルですが別に私に妹は今現在いないので安心して頂きたい。
妹萌えというものがわかりません。
ようじょや可愛い後輩はとても萌えるしかわいいし可愛がりたい愛でたいと思うのですが、妹という属性を強調したキャラクターを私はあんまり愛でていなくて(別に妹キャラだからかわいくないとか嫌いとかではない)、なぜかと考えるとそれは私自身が姉をもつ妹で、そして妹とはわがままで甘ったれで姉にすべてのことを教えてもらっているのに学習しない上、本人は学習したと思い込んで世界を見下してすらいる、そんな存在だと自認していたのかもしれないなあと思ったのでした。端的にいうとクズだ。
同族嫌悪とはまた違う気がしてるけど近い、みたいな。
このところずっと私は「妹を殺さなくてはならない」と思って仕事をしていました。
このところとにかく私は仕事というものをナメ腐っていて怠惰で約束は破って人の好意にあぐらをかくどころか泥つけて、死ねばいいのではないかというぐらいだったのですが、それを自覚し始めた8月半ばごろから、これは私の中の「妹」の部分が露出して、権限を持ち始めたのではないか、という錯覚にとらわれていました。
社会人としての私はこの妹を、私の中の「妹」を殺して、切り離してしまうでも埋めてしまうでもいいのでどうにかして押し込めて、そうしてはじめてきちんとした仕事ができるのではないかと、そんな風に思うようになったのです。このひどい有様は私のなかの妹の部分がよくないのだと。だから殺さないといけない。
ちょうどタイミング的に実家を出てひとりぐらしをしていたリアル姉が帰ってきていた時期で、それまでいなかった存在が急に増えて、姉のことは好きだけれどまあそれまでゆうゆうと一人部屋だったところに二人部屋になった(間に暖簾があるだけ)のは、ひどいストレスだったというのもありましたが。
姉がいると私の中の妹の権限は加速する。
私はどこかで妹を殺さなくてはならない、と思っていました。それは概念的なものだったけど、妹を殺す、という妄想に取りつかれて、そしてそれは写真に起こして物理的な作品を作って安心したい、それを見ることで「ああちゃんと妹は死んだのだ」と反芻できるようにして、二度とわたしのなかの妹が現れないようにしようと考えるようになりました。
写真の中の妹の死体は私が自分で妹役をするつもりでした。だれかに被写体になってもらうのは、それは違う、と思っていました。
だって殺すのは私の中の妹なのだから。
このへんでヨドバシカメラで三脚を衝動買いし、二重リキッドの新しいのを買いました。
どこで妹を殺そう、私は街中で妹を連れ出してずっと徘徊していました。たいていは路地裏なのですが、妹はなかなか死んでくれませんでした。しゃがん退屈そうにしていたり、猫と遊んだりしていました。私がカメラを持っているので、ピースサインをしたりポーズをとったりはしてくれましたが、死にませんでした。いつまでたっても。
仕事のことでわりと決定的なことが起きて、私は死にたくなると同時に死んでくれない妹を憎みました。殺さなくちゃいけないのに殺せない自分も嫌でした。
私は私の中でもうだめだなと思って、自分を閉じて、仕事先の人たちともきちんと話せなくて、妹はどんどん露出していきました。妹のことしか考えていないくらい、妹を殺さなくちゃいけないと思っていました。
おとといに、仕事先の方と話していました。仕事を辞めたいと。その時に私はなにかヒントをもらったような気がしました。もうよく覚えていない自分の頭が憎い。
私は逃げてばかりいて、自分のことしか考えられない人間だということを、腹立たしく、開き直っていて、すごく端的に言ってクズだということを、きちんと正面からぶち当てられたのが昨日のことでした。
妹なんていませんでいた。ただただ私が居るだけでした。架空の妹という人格にすべての責任を押し付けて、自分自身はちゃんとした理性的な人間でいるようなつもりでいるだけでした。妹の死というモチーフの作品にとりつかれて、自分自身の弱さを直視できないし改善に向けて努力もできない、世話になりまくっている周りの人々への感謝すらうすっぺらい、そんな妹とは、ただの私以外のなにものでもありませんでした。作品の被写体に自分以外いないと感じていたあたり、おそらく私はそれをよく分かっていたのでしょう。自覚がなかっただけで。ちゃんとわかっていたのです。私は私を殺すことなどきっとできないのですから。私は自傷することはできても自殺はできない。傷ついていることをアピールすることで赦してもらおうとするのが私だから。死んでしまったら赦してもらっても意味などない。この思考回路が私だ。どうしようもないこの思考回路が。
妹を殺さなくてはならないと思っていたのは間違いだったのです。
性格を変えることはできない。と言われました。私もそうだと思います。ただ、考え方を変えることはできると。考え方を変えれば行動が変わって、行動が変われば結果が変わって、結果が変われば未来が変わると、そう言われました。
私も、そうだ、と思いました。
上記の、決定的な出来事、のときに、糸が切れたんだろうといわれました。糸が切れて、もうなにもかもどうでもよくなって、死体のように生きていました。そんなことで仕事などできるはずもなく色々ばれまくっていました。
糸を結びなおして、もう一度、自分のためでなく誰かのために仕事をしなくてはいけない。
6月の私は、いまよりもうすこし、人のために動けていたと思います。多分それは否定しなくてもいいこと。だと思っています。自分のため半分、人のため半分、くらいで生きていられたはず。
できないことじゃないんだ。
姉は3日前に再びひとりぐらしに戻り、私は再び一人部屋に戻りました。
姉がいるあいだなぜだか一度もできなかった掃除を、昨日しました。まだまだ片付いていないけれど、今日もまた少し片づけようと思います。
自撮りをしようと思って、三脚とストロボで写真を撮りました。自画像のようなもので、ただメイクも着替えもウィッグもつける気が起きなくて、ただのわたしの写真を2枚ほど撮りました。
そこには妹と、ただの私がいました。どちらも私でした。
私、と、妹、という人格に分割するということは、これからもたびたび私はやってしまうのでしょう。
でもそのたびに私は、できれば殺すのではなくて、埋めるのではなくて、その怠惰な腕を引っ張りあげて、眠りに落ちそうな背中を叩いて、なだめすかしたり説得したりして、一緒に頑張ろうと、そういう風に言ってあげようと思います。
逃げないで、ちゃんとしよう、と。
このところ夢を見ては悪夢かひどい幻覚のようなものばかりでした。
昨日はよく覚えていないけれど、もうすこしましな眠りだったように思いました。
きっと妹は怖かったろうなと、そんなことを考えている自分は病気かなにかかもしれないけれど、それはそうとしてうまくつきあっていく方法を考えようと、ひとまずそう思えるようになったので、大丈夫なのかなあと、そんな風に思うのでした。
一人で責任をもって辞めます怖いし向き合いたくないから、というのがとてもよくない思考回路で結局は自分のことしか考えていないということに気付けて良かったけれど、結局どうしたらいいのかよく分からないままで。
でも頑張ってみよう、と、思います。
もういい大人で、13、14歳の子供じゃあないんだから、というのは昨日言われた言葉なのですが、その時私は、なぜこの人は私の中の妹が14歳であることを知っているのだろうとうっすら思っていました。でも簡単なことでした、だって妹とは私のことなのだから。
成長しなくてはいけない。
私の妹の死はもう撮れないかもしれないけれど、私の妹が成長した姿を、いつかちゃんと写真におさめることができればいいと思います。