解体現場のもよう

忘れないように書き留める

25歳未亡人修についての萌えまとめメモ

前回の記事でワートリの修に関して書きたいと言っていた気がする。

ていうか!今書いておかないと!!本誌で二宮さん(回想の傘の人)が出てきてしまったのでこれからごろごろ変わると思うので!!

これから本誌で東さんと修と麟児さんという私の発狂案件3つが展開されると思うととてもワクワクします。ふぉろわさんでうるさいと思ったらこの3つのどれかをミュートしておくことを推奨します。東さん大好き。

 

 

 

■25歳未亡人修という妄想■

まずこの妄想がどこから来たのか覚えてねえよ…気が付いたら居たんですよ…。あ、いや違う思いだした。

2期妄想+成長パロ+未亡人属性を付随した萌えになるんですけど、えーとフォロワーさんとの会話で、ワートリの中でボーダーに助けられたモブ幼女とかモブ少年が数年後成長してボーダーに入る2期がきたら凄く少年漫画っぽくなりそう!みたいな話題がありまして。

そうなると今の主人公の修ゆまはどうしよう?→いやいやそこは頼れる上司とか先輩になって現れるんですよ!1期からのファン垂涎!みたいな話になりまして。あーそれいいー!!みたいな。今で言うとNARUTOだ。

 

でもね、私1期から2期のあいだに、遊真は死んでしまうんじゃないかという変な確信があったんです。その死に関して1期からのキャラは口を噤むし、2期主人公たちにとっての謎となり、読者にとっても…みたいな。

ぶっちゃけトリオンで生きている遊真の寿命なんて本当に分からないし(れぷ先生もいないし)、何がしかがあって死を迎えたのではないか、そしてそれは修に関わることじゃないかみたいな。遊修ですよねまあ。

で、2期主人公たちが謎の真相を知るために夜に修の部屋を訪ねると、月明かりのなか水を飲みながら、カッターシャツのボタンをいくつか外した修がうっすら笑って迎え入れる妄想まで行きついてあああ未亡人修たまんねえな!!!!!みたいな話でした。

っていうか修はもともと伸びしろしかないみたいなキャラ造形+才能が無い者がボーダーという場所で生きると決めた諦観と「やれることは全部やる」というブレーキの無さにも萌えている部分があって、成長パロとかいう俺得設定ガン盛りできる遊びはとても楽しかったのですね。

 

それとはまた別に、今の(15歳現在の)修にも確かに未亡人萌えを見出していて、なんだろうなーこのこ絶対「だれかになにかされた」ことがあるよな、という萌えがあって、そしてその「だれか」は今はもういないのですよね。だから過去の事。

そして過去を感じさせるキャラクターに私はめっぽう弱いです。もっというと「過去の男」と「それに影響されている本人の言動」です。黒バスなんてどこ向いてもこれが転がってて萌え死んでいた。

で、誰だ?となったときに、それは麟児さんしかありえない。私が麟修に発狂する原因はこのへん。

 

だから25歳の未亡人修は「だれかになにかされて影響を受けている修」の未亡人臭に引き寄せられた私が「じゃあそれは遊真を喪った修なのでは」と考えて産まれた部分が大いにある。

そしてそのあと、10巻の修の回想で、それは「麟児さんを喪った15歳の修」であったことに気づいて、そんで記者会見の修の言葉を経て、それからは割と25歳妄想は落ち着いています。やるけど。

 

 

 

これふぉろわさんに「多重めぞん一刻だね」って言われてそれやー!!!ってなりました。あと死ぬのは遊真じゃなくて迅さんの可能性もある。どっちかが、もしくは両方死んでいる。35歳くらいで組織幹部になって2人スーツで三輪修とかやってるといい。とかとか。

そうでなくともワートリは今後の世界の戦争や戦況、ボーダーの内情や三門市がどう展開していくか考えるのがとても楽しいので本当に良い作品だなぁと思います。

でもまさか二宮さんの登場にはとてもびっくりしたし初見で傘の人と見抜けなかったのでそれに気づいてからの私の暴走が酷い。東隊の名前が出ただけでにこにこえがおになっちゃうなあとか思ってたらこれだからな。まだしばらくB級ランク戦は続くの、冗長ぎみにならないといいなぁとか思ってました…飽きの来ない展開本当お見事です…。

 

 

 

 

てしまじゅんた萌えとかについてのついログとか

死ぬほど放置してそれでこの記事かみたいなのは自分で分かっているのでノーコメントでお願いしますというかそもそもこういうのをやるためにブログ始めたんだよ私は。

 

諸々の萌えについてのツイートをまとめておきます。主に手嶋純太について。

修については後日まとめたい(25歳未亡人修の成長パロとか)

 

 

 

 

 

 

今はだいぶ落ち着いています。

 

 

 

落ち着いたというか、まあ

またたぶん原作最新刊読み返したら発狂こく自信があるのですが。

でもこのあと金荒視点からの手嶋純太と言う主将についてディスカッションと言うか妄想をして、金荒の自転車に向ける、または後輩に向けるスタンスを推測してなんやかんやということをして、とりあえず彼らと同じ世界線に生きている手嶋純太が存在するということを自分に納得させる作業のようなものをしたんですね。

 

そんで、高校3年生の手嶋純太が生きているということに関してはなんとか受け止められるようになった感じです。

でもそうすると今度は古賀さんが死んでしまいそうになっていて、どこまでも古賀手は古賀手なんだな…みたいなきもちというか、金城さんの古賀さんへのベクトルがいまいち固まらないのでスペバ見て死んだりしている(私が)。

忙しいな。

 

 

妹を殺せなかった話

殺伐としたタイトルですが別に私に妹は今現在いないので安心して頂きたい。

 

妹萌えというものがわかりません。

 

ようじょや可愛い後輩はとても萌えるしかわいいし可愛がりたい愛でたいと思うのですが、妹という属性を強調したキャラクターを私はあんまり愛でていなくて(別に妹キャラだからかわいくないとか嫌いとかではない)、なぜかと考えるとそれは私自身が姉をもつ妹で、そして妹とはわがままで甘ったれで姉にすべてのことを教えてもらっているのに学習しない上、本人は学習したと思い込んで世界を見下してすらいる、そんな存在だと自認していたのかもしれないなあと思ったのでした。端的にいうとクズだ。

同族嫌悪とはまた違う気がしてるけど近い、みたいな。

 

このところずっと私は「妹を殺さなくてはならない」と思って仕事をしていました。

このところとにかく私は仕事というものをナメ腐っていて怠惰で約束は破って人の好意にあぐらをかくどころか泥つけて、死ねばいいのではないかというぐらいだったのですが、それを自覚し始めた8月半ばごろから、これは私の中の「妹」の部分が露出して、権限を持ち始めたのではないか、という錯覚にとらわれていました。

社会人としての私はこの妹を、私の中の「妹」を殺して、切り離してしまうでも埋めてしまうでもいいのでどうにかして押し込めて、そうしてはじめてきちんとした仕事ができるのではないかと、そんな風に思うようになったのです。このひどい有様は私のなかの妹の部分がよくないのだと。だから殺さないといけない。

ちょうどタイミング的に実家を出てひとりぐらしをしていたリアル姉が帰ってきていた時期で、それまでいなかった存在が急に増えて、姉のことは好きだけれどまあそれまでゆうゆうと一人部屋だったところに二人部屋になった(間に暖簾があるだけ)のは、ひどいストレスだったというのもありましたが。

姉がいると私の中の妹の権限は加速する。

 

私はどこかで妹を殺さなくてはならない、と思っていました。それは概念的なものだったけど、妹を殺す、という妄想に取りつかれて、そしてそれは写真に起こして物理的な作品を作って安心したい、それを見ることで「ああちゃんと妹は死んだのだ」と反芻できるようにして、二度とわたしのなかの妹が現れないようにしようと考えるようになりました。

写真の中の妹の死体は私が自分で妹役をするつもりでした。だれかに被写体になってもらうのは、それは違う、と思っていました。

だって殺すのは私の中の妹なのだから。

このへんでヨドバシカメラで三脚を衝動買いし、二重リキッドの新しいのを買いました。

 

どこで妹を殺そう、私は街中で妹を連れ出してずっと徘徊していました。たいていは路地裏なのですが、妹はなかなか死んでくれませんでした。しゃがん退屈そうにしていたり、猫と遊んだりしていました。私がカメラを持っているので、ピースサインをしたりポーズをとったりはしてくれましたが、死にませんでした。いつまでたっても。

 

仕事のことでわりと決定的なことが起きて、私は死にたくなると同時に死んでくれない妹を憎みました。殺さなくちゃいけないのに殺せない自分も嫌でした。

私は私の中でもうだめだなと思って、自分を閉じて、仕事先の人たちともきちんと話せなくて、妹はどんどん露出していきました。妹のことしか考えていないくらい、妹を殺さなくちゃいけないと思っていました。

 

おとといに、仕事先の方と話していました。仕事を辞めたいと。その時に私はなにかヒントをもらったような気がしました。もうよく覚えていない自分の頭が憎い。

私は逃げてばかりいて、自分のことしか考えられない人間だということを、腹立たしく、開き直っていて、すごく端的に言ってクズだということを、きちんと正面からぶち当てられたのが昨日のことでした。

 

妹なんていませんでいた。ただただ私が居るだけでした。架空の妹という人格にすべての責任を押し付けて、自分自身はちゃんとした理性的な人間でいるようなつもりでいるだけでした。妹の死というモチーフの作品にとりつかれて、自分自身の弱さを直視できないし改善に向けて努力もできない、世話になりまくっている周りの人々への感謝すらうすっぺらい、そんな妹とは、ただの私以外のなにものでもありませんでした。作品の被写体に自分以外いないと感じていたあたり、おそらく私はそれをよく分かっていたのでしょう。自覚がなかっただけで。ちゃんとわかっていたのです。私は私を殺すことなどきっとできないのですから。私は自傷することはできても自殺はできない。傷ついていることをアピールすることで赦してもらおうとするのが私だから。死んでしまったら赦してもらっても意味などない。この思考回路が私だ。どうしようもないこの思考回路が。

 

妹を殺さなくてはならないと思っていたのは間違いだったのです。

 

性格を変えることはできない。と言われました。私もそうだと思います。ただ、考え方を変えることはできると。考え方を変えれば行動が変わって、行動が変われば結果が変わって、結果が変われば未来が変わると、そう言われました。

私も、そうだ、と思いました。

 

上記の、決定的な出来事、のときに、糸が切れたんだろうといわれました。糸が切れて、もうなにもかもどうでもよくなって、死体のように生きていました。そんなことで仕事などできるはずもなく色々ばれまくっていました。

糸を結びなおして、もう一度、自分のためでなく誰かのために仕事をしなくてはいけない。

6月の私は、いまよりもうすこし、人のために動けていたと思います。多分それは否定しなくてもいいこと。だと思っています。自分のため半分、人のため半分、くらいで生きていられたはず。

できないことじゃないんだ。

 

姉は3日前に再びひとりぐらしに戻り、私は再び一人部屋に戻りました。

姉がいるあいだなぜだか一度もできなかった掃除を、昨日しました。まだまだ片付いていないけれど、今日もまた少し片づけようと思います。

 

自撮りをしようと思って、三脚とストロボで写真を撮りました。自画像のようなもので、ただメイクも着替えもウィッグもつける気が起きなくて、ただのわたしの写真を2枚ほど撮りました。

そこには妹と、ただの私がいました。どちらも私でした。

 

私、と、妹、という人格に分割するということは、これからもたびたび私はやってしまうのでしょう。

でもそのたびに私は、できれば殺すのではなくて、埋めるのではなくて、その怠惰な腕を引っ張りあげて、眠りに落ちそうな背中を叩いて、なだめすかしたり説得したりして、一緒に頑張ろうと、そういう風に言ってあげようと思います。

逃げないで、ちゃんとしよう、と。

 

 

このところ夢を見ては悪夢かひどい幻覚のようなものばかりでした。

昨日はよく覚えていないけれど、もうすこしましな眠りだったように思いました。

きっと妹は怖かったろうなと、そんなことを考えている自分は病気かなにかかもしれないけれど、それはそうとしてうまくつきあっていく方法を考えようと、ひとまずそう思えるようになったので、大丈夫なのかなあと、そんな風に思うのでした。

一人で責任をもって辞めます怖いし向き合いたくないから、というのがとてもよくない思考回路で結局は自分のことしか考えていないということに気付けて良かったけれど、結局どうしたらいいのかよく分からないままで。

でも頑張ってみよう、と、思います。

 

もういい大人で、13、14歳の子供じゃあないんだから、というのは昨日言われた言葉なのですが、その時私は、なぜこの人は私の中の妹が14歳であることを知っているのだろうとうっすら思っていました。でも簡単なことでした、だって妹とは私のことなのだから。

成長しなくてはいけない。

 

 

 

私の妹の死はもう撮れないかもしれないけれど、私の妹が成長した姿を、いつかちゃんと写真におさめることができればいいと思います。

 

 

 

 

 

長文を書く練習のためのブログ

はじめました。

 

写真の方のブログとは別に、なにか長文を書く練習をしないといけないという気分になって(実際ほとんど小説の書き方とか長文の書き方忘れている感あったし)(というか端的に二次創作でストーカーしている作家さんのブログに影響されたんですけど)。

写真の方のブログは、とにかく「貼ってある写真の邪魔をしない」ことを最重要項目として作ってあるので、ブログデザインも真っ白だし文字もあまり打たないようにしていました。

こっちはむしろ文字メインにするので、かわいいブログデザイン選び放題でとても楽しい。

 

さて、一発目から何書こう。

 

そういえば、NMB48の「太宰治を読んだか?」を聴きました。

ちょっと前にコンビニで立ち読みしたAKBリクアワをまとめたムック本にてタイトルだけ先行して知って、なんだこれどんな曲なんだとものすごく気になって覚えていたのです。こういう、秋元先生の言葉の使い方はほんとうにずるいと常々思う。

この歌を聴いて歌詞を見て、最初に思ったことは「なんてさや姉にぴったりな曲なんだ」という感動と、1人で走り出したいような(それは逃避の為でもあるし、何かを振りほどく為でもあるし、何かを探すための前向きな行動でもある)、そんな時に「君」から「太宰治を読んだか?」と問いかけられて、行動に移した結果自分の不安をひとまず落ち着かせて居られるようになったという、恋愛なんて多分一切していないのにこのなんかもう全力で「青春だなぁ!!!!!」みたいなストーリーをこの短い曲に閉じ込めた秋山先生の手腕への感動でした。出だしは割とありふれた青春ソングなのだけど、タイトルがそれだけじゃない事や背景を想起させて期待感高まるの本当にすごい。

で、その次に思ったのが、石崎洋司先生の「チェーン・メール」でした。本当に私の読書遍歴は児童書とかYAとか少女小説だな。とまあ、それは置いておいて。

チェーン・メール」は、さわ子、まゆみ、舞、ゆかりの4人で進めていく虚構の世界が始まって出来上がっていって、そして崩壊してしまうまでのお話。1時間くらいで読める。

虚構の世界で繋がる少女たちの取り巻く虚構と現実の二重世界と、対比する少女たちの感情がとても激しくて大好きな小説なのですが、その虚構の世界を作り上げた一人の少女、さわ子の手がかりを得ようとして、舞が生まれて初めてニーチェを読むシーンがあるのですよ。太宰治は哲学書じゃないし、舞も自分の事をどうにかしたくてニーチェを読んだ訳ではない(さわ子の事を知るために読んだ)のだけど、「暴発寸前の感情をもてあましている少年少女が、文学作品と邂逅する」というシチュエーションで思いっきりこれを想起したのでした。

太宰治ニーチェもまともに読んだ事はない、ということは正直に申し上げます。

 でもわたしはアイドルの少女たちのどうしようもなく消費されながら燃え上がる精神とそれを体現するうつくしい身体を愛しているし、そんな彼女たちのどろどろに絡まり合ってさまざまな事柄に苛まれながらもステージの仕事に捧げた青春の一ページに、「太宰治を読んだか?」と問いかけられるような、あるいは虚構の世界が壊れた後に残ったものを見て涙がこぼれるような、そんな瞬間があるのかもしれない、いやきっとあるんだろう、と考えるだけでなんだか泣けてきてしまうのです。それは切なさかもしれないし、ただの中二病かもしれないけれど(いまだに中二病こじらせている自覚はある)。

 「チェーン・メール」の虚構の世界はいったん崩壊して、その後は少女たちの繋がりだけを残して「トーキョー・ジャンヌダルク」へと続いてゆくのですが、基本的にインターネットに引きこもってインドアだった私はやっぱり「チェーン・メール」以上に感情移入はできなくなっていて(一番感情移入していたまゆみが「トーキョー・ジャンヌダルク」では退場したというのもある)、ただそれでも少女たちの活躍はとっても心躍るものだったので、もし新作が出たら今でも読みたいと思っています。もう出ないのかなぁ。ちょっとだけS黄尾に通じるものもあったな。依頼を受けて事件解決に臨むけど、依頼無視して自分たちの動きたいように動いたりするとことか。

 

私はもう女性アイドルにも男性アイドルにものめりこんで応援するということはやめようと過去に思って以来それを実践中です。だから基本的にはたまに気になった曲だけYOUTUBEで聴いたり、シングルが出て好みだったら一枚だけ買ったり、ということをする程度なのですが、それでもやはり、完璧に断とうとは思えないというか、完璧に断たなくても良いように今の距離感でいたいなと思っているので、さや姉がほんとうはどう思ってこの曲を歌ったのかとか、NMBが今どんな状況かということは意図的にシャットアウトしています。そんなことに思いをはせたり調べたりしてたら精神的にモンペになるのは目に見えているんだ!ジャニオタでモンペだったあの頃は精神的に不安定だったので今ぐらいの距離感が丁度良いです。ヲタを名乗るにはライト過ぎるて申し訳なくなるからまあスキダヨーくらいしか言わないんだけどなぜか職場ではガチオタ勢扱いされるのなんか解せぬ。ライブにもほとんど行った事ねーわい。

 

ううむ 長文書く練習第一弾としてはこんなので良いのかなぁ。

ちなみにこれ書き終わるのに2日掛ってるんだぜ。どんだけリハビリだ。